北海道家庭学校のその後―留岡幸助が遺したもの

前回の記事では、留岡幸助がどんな人物で、なぜアメリカに渡り、「流汗鍛錬」という理想を掲げて家庭学校を作ったのかを紹介しました。今回はその続編として、留岡が1914年に開いた北海道分校(現・北海道家庭学校)が、創設者の死後どうなっていったのかを追いかけます。

「制度の変遷」と「人が変われば理念もどう揺れたのか」まで、できるだけ具体的に見ていきます。

留岡幸助が亡くなったあと、学校を引き継いだのは誰か

留岡幸助は1934年に亡くなっていますが、学校自体はそこで終わりません。歴代の校長には次のような名前が並びます。

  • 留岡幸助(創設者)
  • 牧野虎次
  • 今井新太郎
  • 留岡清男(幸助の二男)
  • 谷昌恒
  • 小田島好信、加藤正男、熱田洋子、仁原正幹 ……と続く

創設者の実子である留岡清男は、著書『教育農場五十年』(岩波書店)を残しています。また、清男のあとを継いだ谷昌恒は、『ひとむれ』(評論社)というシリーズを何冊も刊行しており、これは今でも家庭学校の実践記録として読まれている資料です。

正直なところ、創設者が亡くなったあと組織が同じ理念を保ち続けるのは簡単なことではありません。運営資金や人材不足に悩まされながらも少年教育と地域活動を続けてきたという記録があり、決して順風満帆な歴史ではなかったことがうかがえます。「創業者の理想」が「制度」として定着するまでには、何代もの校長たちの試行錯誤があったということです。

制度としての変遷:感化院から児童自立支援施設へ

もう一つ押さえておきたいのが、法律上の位置づけの変化です。呼び方がコロコロ変わっていて分かりにくいので、時系列で整理します。

  • 1914年:家庭学校「北海道分校」として設立
  • 1934年:道庁認可の少年教護院
  • 1948年:児童福祉法に基づく教護院認可
  • 1952年:運営法人が社会福祉法人家庭学校に改組され「北海道家庭学校」に改称
  • 1968年:東京家庭学校から分離し、運営が完全に独立
  • (現在)児童自立支援施設として運営

つまり「感化院」という明治的な呼び方から、戦後の児童福祉法のもとで「教護院」、そして現在の「児童自立支援施設」へと、時代の福祉制度の変化に合わせて看板を掛け替えながら生き延びてきた施設だということです。全国に58ある児童自立支援施設のうち、民間運営はわずか2つしかなく、そのうちの一つがこの学校だとされています。ここまで生き残っていること自体、かなり異例だと思います。

100年経っても変わらない「開放処遇」という特徴

制度の看板は変わっても、変わらなかったものもあります。それが開放処遇、つまり鉄格子や塀で子どもを閉じ込めないというやり方です。

  • 敷地は439ヘクタール(130万坪)という広大な原野
  • 寮舎に職員家族も一緒に住み込む「小舎家族制」を継続
  • 平均入所期間は1年半〜2年、退所後のアフターケアにも注力
  • 1995年には教護院として全国で初めて高校生寮を開設

留岡が北海道に土地を求めた時点で、すでに「壁を作らない」という発想があったわけですが、それが100年以上経った今も基本方針として続いているのは、単なる理念の継承ではなく、現場のスタッフが世代を超えてその意味を再解釈し続けてきた結果だと思います。塀がないという物理的な仕組みだけを真似ても機能しません。職員家族が一緒に暮らす、という手間のかかる仕組みを維持し続けたからこそ、開放処遇が「絵に描いた餅」にならなかったのではないでしょうか。

今も続く歩みと、これからの課題

近年の動きも押さえておきます。

  • 2009年:遠軽町立小中学校の分校を敷地内に開設し、公教育と施設教育を両立
  • 2014年:創立百周年で家庭学校博物館を移転・整備
  • 2015年:1919年建築の礼拝堂が北海道指定有形文化財に
  • 2017年:遠軽市街地に自立援助ホーム「がんぼうホーム」を開設

こうして見ると、施設は「昔ながらのやり方を守るだけ」ではなく、公教育との連携や退所後のケアなど、時代のニーズに合わせて少しずつ形を変え続けていることが分かります。一方で、全国に58しかない施設のうち民間はたった2つという状況は、裏を返せば「この形態を新しく作るのは難しい」ということでもあります。留岡が遺した仕組みは貴重ですが、それが「代替のきかない仕組み」のままでいいのかは、今後も議論の余地がある部分だと感じます。

まとめ

留岡幸助が種をまいた北海道家庭学校は、彼の死後も留岡清男、谷昌恒といった後継者たちの手によって、感化院から教護院、そして児童自立支援施設へと制度の変化を乗り越えながら続いてきました。塀を作らない開放処遇という核の部分は変わらず守られていますが、それは理念を掲げ続けただけでなく、現場の職員たちが世代を超えて手間のかかる仕組みを維持し続けた結果です。100年を超える歴史は、一人のカリスマの功績というより、引き継いだ人たちの積み重ねの物語として読むと、また違った見え方をしてくると思います。

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