はじめに ― この度の地震で被災された方々、心よりお見舞い申し上げます
また崩れた熊本城の石垣を見て、10年前を思い出した話
2026年7月28日午後4時27分、熊本地方でマグニチュード7.1、最大震度7の地震が起きた。ニュース速報を見た瞬間、正直「またか」と思ってしまいました。2016年の記憶がまだ生々しいから。
被災された方、今も余震に怯えながら過ごしている方には、早く日常が戻ることを心からお祈りします。
そして、熊本城の石垣がまた一部崩落したというニュース映像。その崩れた石を見ながら、この城がこの10年間どれだけの手間と時間をかけて修復されてきたかを知っているつもりでしたので、正直かなりがっかりしています。
「絶対に落ちない城」を作った男
熊本城を語るなら、加藤清正ですね。27歳で肥後に入った清正は、1601年ごろから茶臼山に城の普請を始め、1606年に完成させました。ちなみにこのとき、それまで「隈本」と書かれていた地名を「熊本」に改めた張本人でもありました。
清正の城づくりで面白いのは、見た目の美しさより「実戦で生き残ること」に振り切っている点です。石垣は下のほうが緩やかで一見登れそうに見えるのに、上に行くほど反り返りがきつくなる「武者返し」や忍者でも登れないと言われているそいうです。さらに城内には井戸が120か所も!籠城戦を想定して、水にも食料にも困らないよう梅やイチョウ、蓮根まで植えていたというから、清正がどれだけ「負けないこと」に執着していたかが伝わってきます。まさに、戦うための城です。
清正の死後は細川家がこの城を引き継ぎ、明治維新まで統治しました。
宮本武蔵が細川家に客分として招かれ、晩年をこの城で過ごしながら『五輪書』を書いたというのも、この本を読んでみたいと思ったきっかけでした。
西郷隆盛を退けた籠城戦
清正の設計が本物だったと証明されたのは、彼の死から250年近く経った1877年、西南戦争でのことだったというのでそのきっかけを調べてみました。
西郷隆盛率いる薩摩軍1万3千人に対し、城を守ったのは谷干城率いるわずか3,500人ほどの政府軍でした。数字だけ見れば勝負にならないはずが、政府軍は約50日間、城を守り切ってしまう。攻めあぐねた西郷隆盛が「わしは官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と語ったという逸話は有名ですが、実際の兵力差を知ってはじめて分かる気がしました。
ただし無傷だったわけではなく、籠城中に原因不明の火災が起き、天守と本丸御殿は焼け落ちています。城そのものは落ちなかったが、大事なものは失われた。この「守り切ったのに、燃えた」という結末でした。このエピソードも熊本城の歴史をどこか 落ちない城の異名を持つ所以だと思います。
2016年、同じ場所を2度襲った震度7
2016年4月14日夜の前震(M6.5、震度7)から約28時間後、4月16日未明に本震(M7.3、震度7)が襲った。同じ観測点で震度7を2回記録したのは気象庁観測史上初めてのことで、この「時間差」が被害を大きくしました。このニュースは、大変衝撃を受けました。熊本の友人に涙ながらに安否の連絡をしたことを覚えています。
専門家が航空写真を3D解析したところ、前震の時点ですでに天守閣入り口付近の石垣に緩みが生じていて、そこに本震が追い打ちをかけた形で崩落し、入り口をふさいでしまったとのことでした。1回の地震ではなく、2回ものダメージが積み重なって被害を広げたことは間違いないでしょう。
残念なことに、このとき国指定重要文化財の宇土櫓をはじめ、多くの櫓や塀、石垣が被害を受けています。
5年かけて天守を戻し、まだ半分も終わっていない
このあとの復旧のペースを見ると、文化財の修復というのがいかに時間のかかる長い作業ということがわかります。
2020年6月に「特別見学通路」が開通し、崩れた石垣を間近で見られるようになりました。翌1月には重要文化財としては初めて長塀が復旧。同年3月、ようやく大小天守が完全復旧し、6月に内部公開が再開されました。天守だけで5年。
そして今、「奇跡の一本石垣」と呼ばれる象徴的な石垣の修復が進んでいる最中だが、城全体の完全復旧の目標は2052年度とのことですが、復旧工事が進められていた場所も再び被災してしまった箇所もあるとのことでした。泣けてきます。
参考:熊本城公式サイト
熊本の皆さまへ ― 頑張ってください
10年前の地震の時も、全国からの支援もあり、何より熊本の皆さん自身の力で、少しずつ、しかし確実に街を、そして熊本城を取り戻してきたと思います。
今はまだ不安な時間が続いているかもしれません。でも、あの武者返しの石垣がそうであるように、熊本には簡単には崩れない強さがあると思います。
頑張れ、熊本。頑張れ、熊本城。
遠くからずっと応援しています。



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