歎異抄から学ぶ「なぜ生きる」

歎異抄で学ぶ「なぜ生きる」鎌倉時代の名著

正直に言うと、私が『歎異抄』を初めて手に取ったのは「なんとなく人生に疲れていた時期」でした。仕事もうまくいかず、人間関係にも疲れて、本屋でふらっと目に入ったタイトルに惹かれただけです。そこから読んでみると、想像していたような「難しい仏教書」というより、鎌倉時代のある人物の、率直すぎるくらい率直な告白録でした。

「歎異抄 なぜ生きる」という組み合わせで検索してこのページに辿り着いた方も多いと思います。この記事では、SEOでよく見かける表面的な解説にとどまらず、実際に読んでみた者の視点から、良いところも「そこまで期待しない方がいいよ」という部分も、できるだけ正直に書いていきます。

出典元:浄土真宗親鸞会

歎異抄とは誰が書いた?

まず基本情報から整理します。

  • 『歎異抄』は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人自身が執筆した書物ではありません
  • 親鸞の弟子である唯円(唯円房)が、師の言葉を書き留めてまとめたとされるのが定説です
  • 成立は鎌倉時代後期、親鸞が亡くなった後のこと

浄土真宗本願寺派の研究機関の解説によれば、歎異抄とは浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が述べた言葉を門弟の唯円房がまとめた書物とされているとされています。

なぜこの本が書かれたのか。それは、親鸞の死後、教団内で師の教えとは違う解釈を説く人が現れたことへの「歎き」がきっかけでした。ある解説サイトでは、親鸞聖人がおっしゃった言葉を弟子が書き留めたもので、高弟の唯円とする説が一般的だと説明されています。つまり『歎異抄』というタイトル自体が「異なることを歎いた書」という意味を持っているわけです。

正直、この成立事情を知らずに読むと「なんでこんな辛辣な文章が続くんだろう」と面食らいます。私も最初はそうでした。でもこの背景を知ってから読み直すと、一人の弟子の焦りと誠実さがにじみ出ていて、印象がかなり変わります。

「なぜ生きる」の答えが明示されている、というのは本当か

ネット上ではよく「歎異抄を読めば“なぜ生きる”の答えがわかる」というキャッチコピーを見かけます。私自身、そのフレーズに惹かれて読んだ一人ですが、率直に言うと「明快な一文で答えが書いてある」わけではありません。

『歎異抄』が扱っているのは、次のようなテーマです。

  • 人間は誰しも煩悩を抱えたまま生きているという現実
  • 自分の力ではどうにもならないものに、どう向き合うか
  • 「善人」「悪人」という評価軸そのものへの問い直し

つまり「なぜ生きるか」への答えというより、「生きることの苦しさをどう受け止め直すか」という視点の転換を提示している本、というのが私の実感です。ここを「答えがズバリ書いてある」と期待して読むと、正直ちょっと拍子抜けするかもしれません。美化して紹介されがちですが、実際は読み手が何度も読み返しながら、自分なりの解釈を重ねていく類いの書物です。

学校では教えない理由は? エリート主義を否定しているという点について

「歎異抄はなぜ学校であまり深く教えないのか」という疑問もよく検索されています。よく言われる理由の一つが「エリート主義の否定」、つまり努力して修行を積んだ立派な人だけが救われるのではなく、煩悩を抱えたどうしようもない人間こそが救いの対象になるという逆説的な思想(悪人正機)にあります。

これについて、少し弁明も込めて書いておきます。

  • 学校教育は基本的に「特定の宗教を深く教え込まない」という原則があるため、宗教書全般が浅い扱いになりがちです
  • 「悪人正機」は誤解されやすい表現で、字面だけ見ると「悪いことをしても救われる」という乱暴な話に聞こえます
  • 実際には、自分の弱さ・愚かさを直視できる人ほど救いに近いという、内省を促す思想です

倫理の教科書などで断片的に紹介されることはあっても、高校の倫理や日本史の教科書には悪人正機がたいてい引用されており、この部分だけは知っているという人も多いという指摘もあります。つまり「教えていない」というより「表面的なキーワードだけ教えて、本質まで踏み込んでいない」というのが実情に近いと思います。エリート主義を否定する思想だから意図的に避けられている、というよりは、単純に踏み込むと宗教教育の線引きが難しくなるから、というのが実態に近いのではないでしょうか。

みんなが知っている有名な言葉はある?

『歎異抄』の中で最も有名なのが、第三章に出てくる一節です。ここだけは学校の授業や入試問題でも取り上げられることがあります。

  • 善人でさえ極楽往生できるのだから、まして悪人はなおさらである、という趣旨の一節
  • これは通常の常識(善人が救われて当然、悪人は無理)とは逆の発想
  • 「他力本願」という、自分の力に頼らない考え方が根底にある

あるコラムでは、この考え方について善人でさえ極楽往生できる、ましていわんや悪人は極楽往生できるということだと解説されています。

一見すると「悪いことをしてもOK」という話に聞こえてしまいますが、それは誤解です。ここでいう「悪人」とは、自分の力では煩悩から逃れられない、弱さを抱えた普通の人間のこと。むしろ「自分は善人だ」と思っている人ほど、自力で何とかしようとして、かえって本当の救いから遠ざかる、という逆説なのです。

私はこの一節を読んだとき、正直ちょっとゾッとしました。「自分は頑張っているから大丈夫」という思い込みを、静かに突き崩されるような感覚があったからです。

どんな時に読んだら効果的か

これは個人的な実感も含めて書きます。『歎異抄』は正直、順調な時に読んでもあまり刺さりません。むしろ次のようなタイミングで読むと、言葉が体に入ってくる感覚があります。

  • 頑張っているのに報われないと感じている時
  • 自分の弱さや失敗を突きつけられて落ち込んでいる時
  • 人生の転機(受験・転職・介護・別れなど)で立ち止まっている時
  • 「なぜ生きているんだろう」と漠然と考え込んでしまう夜

逆に言えば、絶好調の時に読んでも「なんだか説教くさいな」で終わってしまう可能性もあります。私自身、余裕がある時期に読み返してみたら以前ほどの衝撃は感じられませんでした。心が弱っている時にこそ効く本、というのが正直な感想です。

わかりやすく解説した本の紹介

原文だけで読むのはかなりハードルが高いので、解説書と合わせて読むのがおすすめです。代表的なものを挙げておきます。

どれか一冊だけ選ぶなら、まず現代語訳が読みやすいものから入り、興味が湧いたら原文に挑戦する、という順番がおすすめです。

まとめ

『歎異抄』は、鎌倉時代から800年近く読み継がれてきた、たしかに稀有な書物です。ただし「読めばすぐに“なぜ生きる”の答えがわかる」といった過度な期待は禁物で、何度も読み返しながら、自分の弱さと向き合っていく類いの本だというのが正直な感想です。

司馬遼太郎が「無人島に一冊の本を持っていくなら歎異抄だ」と言ったといいます。私はそこまで深くは理解できなかったのですが、”生”と”死”を見つめられる教えがあるのかもしれません。

人生に迷った時、うまくいかない自分を責めてしまう時、この本の言葉は静かに寄り添ってくれる、心の一冊なのでしょうか。

まずは現代語訳の解説書から、気負わずに開いてみてはいかがでしょうか。

【参考・情報源】

唯円|Wikipedia

・コラム:1から分かる親鸞聖人と浄土真宗

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