サッカーの試合を見ていて、思わず声が出るくらいの衝撃的なプレーに出会うことは、そう多くありません。でも1986年、メキシコの空の下で、ひとりの小さな男が見せたドリブルは、今でも「世紀のゴール」として語り継がれています。
その男の名前は、ディエゴ・マラドーナ。
「5人抜き」という言葉を聞いたことがある人も、実際にどんな試合だったのか、そしてマラドーナがどんな人生を歩んだのか、詳しく知らない人は意外と多いのではないでしょうか。今回は、あのゴールの背景から、彼が国を背負って戦った理由、そして光だけではなかった晩年まで、できるだけリアルに掘っていきます。
サッカーファンはもちろん、「マラドーナって名前は知ってるけど…」というくらいの方にも読んでほしい内容です。
マラドーナの5人抜きとは?1986年W杯の伝説のドリブル
まずは、多くの人が「マラドーナ」と聞いて最初に思い浮かべるであろう、あの試合の話から。
1986年6月22日、メキシコW杯準々決勝。相手はイングランドでした。単なるスポーツの試合というだけでなく、当時両国はフォークランド紛争(マルビナス戦争)からわずか4年しか経っておらず、政治的な緊張感が漂う一戦だったと言われています。
この試合でマラドーナは、サッカー史に残る2つのゴールを決めています。
- 51分:神の手ゴール 空中戦でGKピーター・シルトンと競り合った際、左手でボールをはたき込んだゴール。当時の主審(チュニジア人)は反則を見逃し、ゴールと認定。
- 54分:5人抜きゴール(世紀のゴール) センターライン付近からボールを持ち出し、約60メートルを単独ドリブル。イングランドの選手5人(ベアズリー、ピーター・リード、テリー・ブッチャー×2、テリー・フェンウィック)とGKシルトンをかわし、無人のゴールに流し込みました。
このゴールは2002年、FIFA公式サイトの投票で「ゴール・オブ・ザ・センチュリー」に選出。直線距離では51メートルを駆け抜けたとされ、この大会全体でマラドーナが記録した史上最多となる53本のドリブルのうち、決勝点に絡んだのはこの一連のプレーだったといいます。
マラドーナはなぜ「国を背負う」選手と呼ばれたのか
マラドーナのすごさは、個人技だけではありません。彼が特別だったのは、チームが決して強くない状況でも、たった一人の力で国を優勝まで引き上げたという点です。
- 出身は貧困地区。決して恵まれた環境からのスタートではなかった
- ペレが「歴史上最強クラスのスター軍団」の中心にいたのに対し、マラドーナは劣勢のチームを個の力で牽引した
- 庶民階級の象徴とも称され、母国アルゼンチンを1986年W杯優勝に導いた
代表としての足跡を簡単に振り返ると、こんな感じです。
- 1977年:16歳、アルゼンチンA代表として歴代最年少代表デビュー
- 1979年:U-20代表としてFIFAワールドユース選手権優勝
- 1982〜1994年:W杯4大会連続出場
- 1986年:チームを牽引し優勝、大会MVP
- 1990年:イタリアW杯で準優勝(決勝は西ドイツに敗戦)
- 1994年:アメリカW杯の大会期間中にドーピング検査で陽性反応、大会から追放処分
「国を背負う」というのは決して大げさな表現ではなく、当時のアルゼンチン国内の期待や重圧を、良くも悪くも一身に受け止めていた選手だったということが、こうした経歴からも見えてきます。
ナポリでも“救世主”だった
代表だけでなく、所属したSSCナポリでも同じような立場でした。セリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回に貢献し、彼の背番号10は永久欠番になっています。北部の強豪クラブに対抗心を持っていた南部の街ナポリにとって、マラドーナはまさに希望そのものだったわけです。
👏表彰👏
— サッカーキング (@SoccerKingJP) July 6, 2017
ナポリに2度のスクデットをもたらしたマラドーナ、名誉市民に https://t.co/G45fBGvXZp
過去に #ナポリ(@sscnapoli) の黄金期を築いた #マラドーナ 氏が名誉市民となりました。 #サッカーキング pic.twitter.com/izN6NTTPMr
光だけではなかった。マラドーナの晩年と薄暗い影
ここまで読むと、まさに完璧な英雄という印象を持つかもしれません。でも、マラドーナの人生はそんなに綺麗なものではありませんでした。むしろ、後半生は苦しみの連続だったと言っていいと思います。
主な出来事を時系列で整理すると、以下の通りです。
- 1991年:コカイン使用が発覚し出場停止処分
- 1994年:W杯本大会中のドーピング検査で陽性、大会から追放・15か月の出場停止
- 2000年:ウルグアイでドラッグ摂取による心臓発作で入院
- 2004年:ブエノスアイレスで再び心臓発作、生死の境をさまよう(当時の体重は122kgに達していたとされる)
- 2007年:肝炎とアルコール依存症の治療
- 2020年11月25日:ブエノスアイレス郊外の自宅で死去(60歳)
死因についても、単純な話ではありませんでした。体内からアルコールや違法薬物そのものは検出されなかったものの、肝臓・腎臓・心臓血管に疾患があったことが判明されたとしています。
さらに2024年に発表された検視官の報告書では、発作の原因について自然な心拍の乱れ、あるいは過去に乱用していたコカインのような薬物などの外部要因の可能性が指摘されました。この件をめぐっては、担当した医療従事者らが過失致死の疑いで起訴され、裁判が続いているという状況もあります。
メッシとの比較でも語られるマラドーナの存在感
余談ですが、マラドーナは同じアルゼンチンの英雄であるリオネル・メッシとも度々比較されてきました。左利き、小柄、異次元のドリブルとスピード、そしてバルセロナでのプレー経験があるなど、両者には多くの共通点があります。
2007年には、当時若きメッシがマラドーナの「5人抜き」にそっくりのゴールを決め、世界中で「ディエゴの再来」と大きな話題になりました。当のマラドーナ自身は、メッシの才能を認めつつも、メディアによる過度な比較報道に対しては「(まだ若いメッシへの)過大評価は禁物だ」と釘を刺すような冷静なコメントを残したこともありました。
ちなみに、1986年のイングランド戦に相手選手として出場していたゲーリー・リネカー氏は、海外メディアのインタビューなどで「ディエゴを超える選手なんて絶対に現れないだろうと思っていた」と前置きした上で、キャリアの長さやピッチ外の素行を含め、今ではわずかにメッシが上回っているかもしれない、といった趣旨の評価を語っています。
かつて同じピッチでマラドーナの衝撃を体感したレジェンドにここまで言わせるという事実一つとっても、マラドーナという存在がいかに規格外の基準(モノサシ)であったかがよく分かります。
まとめ:光と影、両方あってこそのマラドーナ
改めて振り返ると、マラドーナという選手を語るうえで欠かせないのは、次の3点だと思います。
- 1986年W杯の5人抜きは、単なる個人技ではなく、当時の政治的背景も絡んだ“伝説”そのものだった
- 貧困地区出身から国を背負うまでになった半生は、まさにスポーツにおける英雄譚
- 一方で薬物問題や晩年の孤独な死は、決して美談だけでは済まされない現実だった
サッカーの記録やゴールシーンだけを見れば、彼はまさに完璧な天才です。しかし、その裏側には常に重圧と孤独があり、最後は決して幸せな終わり方だったとは言い切れません。だからこそ、あの5人抜きのゴールが今も色褪せずに輝いて見えるのかもしれません。完璧じゃなかったからこそ、多くの人の心に残り続けているのだと思います。
もしまだあの伝説のゴールを見たことがない、あるいは久しぶりに見返したいという方は、ぜひ動画でその衝撃を体感してみてください。



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