大河ドラマ「豊臣兄弟!」第21話「風雲!竹田城」では、羽柴秀長が竹田城の水の手を断ち、水汲みに出た兵を調略して無血で開城させる場面が描かれた。だが『信長公記』を確認すると、秀長が竹田城を落とし城代を置いたという記述はあるものの、水断ちや調略についての記載は見当たらない。ドラマ側の創作である可能性が高い。
竹田城について調べていくと、「無血開城で戦を避けた武将の美談」という単純な図式には収まらない、もっと入り組んだ歴史が見えてくる。
実際には一度どころではなかった
竹田城を140年近く治めていたのは、山名氏配下の有力国人・太田垣氏。「山名四天王」と呼ばれた家柄の一つで、当主・太田垣輝延は7代目にあたる。
この城、実は同じ時期に何度も持ち主が入れ替わっている。1569年、織田方の羽柴秀吉の侵攻で一度落城。だが輝延はその後毛利方に転じて城を奪還する。1577年には秀吉の弟・秀長に再び攻められて落城するが、隙を見てまたも取り戻している。ドラマが描いた「水断ちからの無血開城」は、この1577年の出来事に当たるが、前述の通り史料上の裏付けは薄い。
本当の意味での決着は、その3年後の1580年だった。三木城攻めを終えた秀吉方が但馬へ大軍を送り込むと、輝延は「さしたる抵抗もできずに」降伏したと記録されている。約140年続いた太田垣氏の竹田城支配は、ここで終わる。輝延は播磨へ落ち延び、以後の消息ははっきりしない。
つまり「一度の決断で犠牲を避けた」という美談というより、粘り強く奪還を繰り返した末に、最終的には大軍の前でどうにもならなくなった、という方が実態に近い。
なぜ織田方はそこまで但馬にこだわったのか
戦の理由を「信長軍が強すぎたから」だけで片付けるのは少し単純すぎる。但馬には生野銀山という重要な財源があり、竹田城はその銀山を押さえるための拠点でもあった。竹田城からは、秀吉の居城だった姫路城と同じ瓦が出土しており、羽柴方が城の整備を後押ししていた可能性も指摘されている。単なる勢力争いではなく、銀山という経済的な実利が絡んでいたわけだ。
太田垣家のその後の意外な接点
滅んだ太田垣家の話には、少し意外な後日談がある。子孫の中から、幕末の歌人として知られる大田垣蓮月を輩出したと伝わっているのだ。武将としては歴史の表舞台から姿を消した一族が、後の時代に文化人として名を残している。
今見えている石垣は、太田垣氏のものではない
もう一つ意外なのが、現在竹田城で見られる壮大な石垣群は、太田垣氏の時代のものではないという点だ。1580年の落城後、城主は桑山重晴を経て1585年に赤松広秀へと移る。今に残る石垣は、この広秀の代に本格整備されたと考えられている。
ちなみに広秀自身も、秀吉の播磨侵攻の際に居城・龍野城を戦わずに明け渡した経歴を持つ人物だった。竹田城という場所には、二代にわたって「無血で城を渡した武将」が関わっていたことになる。
まとめ
竹田城の歴史は、「一度の無血開城で戦を避けた美談」として語られがちだが、史実を追うと、何度も落城と奪還を繰り返した末の疲弊と、生野銀山という経済的な思惑、そしてドラマでは創作された演出が重なり合ってできている。今見えている石垣も、開城を決めた太田垣氏ではなく、その後に入った赤松広秀の時代のものだ。
雲海に浮かぶ景色を眺めるとき、そこにあったのは一度の決断というより、何度も奪い、奪われ、最後は大軍の前に力尽きた140年の攻防だったと考えると、見え方が変わってくるかもしれない。

